健児の塔とは、1945年の沖縄戦で犠牲になった沖縄師範学校男子部の野田校長以下職員・生徒の御霊を祀ったものです。鉄血勤皇師範隊という部隊が3月31日に沖縄守備軍の命令によって編成され、この隊は軍と共に首里戦線からこの摩文仁という地まで戦った結果319人の職員と生徒を失いました。 この戦いで生き残った在学生が1947年に戦没した学友達の冥福を祈って塔の建立を発起して基金運動をし、同窓の先輩などの協力もあって1950年5月25日に出来上がったものです。
霊域参道の先にある黎明の塔に向かう途中にこのような分岐があります。右へ行くと黎明の塔と展望台ですが、左の階段を降りると第32軍司令部壕と健児の塔に向かいます。 展望台に行く人は大勢いますが、左の森林地帯に降りていく人は休日でもほとんどいませんが、せっかくなので行ってみることにしました。
前回にも紹介しましたがこれが「第32軍司令部壕」です。ここまで逃れてきたものの、どうしようもなく力尽きたとの事。ご冥福を祈りながら進みます。
司令部壕跡を過ぎると、このように降りる階段が現れます。草木が生い茂っているものの階段は綺麗に整備されているので恐怖感はありません。
すぐに着くのかと思いきや、このような階段が続きます。下にどんどん降りるので、また登らなければならないかもしれないと不安に駆られながら前へ(下へ)進みます。
10分程歩くとこの「摩文仁の丘」の案内が現れます。ここ一帯の地名が摩文仁なのでこの名前がついたようです。
そのすぐ先に目的地の健児の塔が現れました。その先にも子供の形をした像のようなものが見えます。
これが「健児の塔」です。戦没者の名前が刻まれています。つい最近に誰かが千羽鶴を持ってきたようです。
沖縄師範学校についての説明などが書かれています。この学校は沖縄を近代化することに貢献し、さまざまな事で沖縄に貢献した人材を育成していましたが、終戦時には在校生の75パーセントが戦争の犠牲になったそうです。
冥福を祈りつつ公園に戻ろうとしますが、先は長そうです。
歩いて5分位で「わんぱく広場」に出てきました。名前は楽しそうですが、わんぱくな子供はどこにもいません。悲しい雰囲気がここまで続いているようです。
ご覧のようにすべての遊具は使用できません。最後に使用したのはいつでしょうか。ちなみにこの広場は廃墟のようですが公園そのものはとても人が多くて賑わっています。
意外と早く公園の入口付近に戻ってきました。奥に見える階段はさきほどの展望台の方に繋がっているようです。また戻る気にはならないのでスルーします。
公園に戻ってきました。こちらの入口はとても寂しげな印象です。普通にナビを使って公園に来るとここではなく賑やかな方の入口から入ることになります。 次回はすぐ近くにある「ひめゆりの塔」をご案内します。